もとゆき物語~中学時代
とゆき物語~中学時代

中学時代は、バレーボール部(9人制)とブラスバンド部(マーチング)でした。

中学校時代は、勉強もうるさく言われましたが、その割にはのびのびとやらせてもらった、かつてのよき時代の中学でした。

バレーボール大会では、良い成績は残らなかったのですが、当時ハンドボール大会のために運動部の選手を寄せ集めた混成チームの一員では、大会で優勝したはずです。

その時は、混成チームでしたからユ二フォームはなく、各所属の運動部のユニフォームで試合に臨みました。


もとゆき物語~高校時代
高校時代のまんが

高校時代、受験でどこを受けるかということになった時に、親父が行っていたから東大へということになり、勉強すればそれぐらいのところに行けるのでないかという思いも漠然とありました。

元々岡山には、岡山医専という医学の専門学校がありました。

医専は、中国四国地方には一つしかなかったそうです。

地元に残るとしたら医者になりなさいというのが、その地域においては当然の流れでした。 身内にも医者が多く、医者という専門職は非常に立派で、やりがいがある仕事だと思います。

ただ、お医者さんになっちゃうと、目の前の患者さん一人しか一時期に治すことができないのですね。

医師というのは、人の病気を治すという崇高なお仕事ですが、時間的にも、幅が限定されるのではないかという意識を持ちました。

当時は、戦後のなにもない時代です。

お薬では抗生物質がよく効いたとか、循環器の新薬が開発され患者さんが治ったという報道が数多くありました。

そうした中で、そういった意味で新しいお薬を開発すれば、日本国中・世界中の患者さんを同時期に治せるのではないか、医者になるよりもお薬を開発する道を歩んだほうが、効率的に社会貢献ができるのではと考えました。

同じ医療の世界ではあるのですが、薬を作る道に行きたいと考えたのが大きな理由で、薬学を選びました。


もとゆき物語~大学時代
大学時代のまんが

大学に入ってからは、楽しかったですね!

大学は、全国から個性豊かな色々な人が、集まってきているところでしたからね!

テントを持って自転車で、北海道を回ったりして・・・・”カニ族”のはしりです。

大学2年の時に、初めて外国に行きました。

船・・太平洋航路・・・普通の人と逆方向のアジアへ・・・マニラと香港に行きました。 大学紛争の時代でした。

当時の学生運動家のアジ演説では”日本はダメ、日本はひどい!”という話でしたが、アジアに行き”日本は案外いい国ではないのかな?”と思いましたね。


もとゆき物語~厚労省時代
厚労省時代のまんが

厚生省では、薬事法等の改正作業、食品添加物対策、医薬品等の研究開発振興、ICH(日米EU医薬品規制整合化国際会議)など、忙しくかつ面白い仕事をたくさんやらせてもらいました。

アメリカのFDAに行ったり、途中で外務省に出向して、インドネシアで3年間日本大使館の職務に就いたこともありました。

大学に残り、あるいは製薬会社に行ったら経験できなかった分野の仕事を、たくさんさせてもらったと思います。


もとゆき物語~麻薬課長時代
厚労省時代のまんが

厚労省時代のまんが

厚生省で最後に担当したのが、薬務局の麻薬課長でした。

厚生省は、麻薬乱用を取り締まる司法警察員(麻薬Gメン)という組織を全国にもっており、 その組織を総括する仕事をしていました。

それ以外に、医薬品となる合法的な麻薬の生産とか、薬物の持つ弊害を国民に知ってもらうこと、薬物乱用防止の啓発活動などを行っておりました。 非常に面白い仕事でした。

麻薬というと、すぐ薬物依存という恐ろしい面ばかりが問題視されますが、一方で『癌患者の痛みの緩和』という面も持っています。

麻薬を医薬品として使うことは、世界的に増加しており、日本でも最近増えてきています。 そのひとつのきっかけとなりましたのが、《WHOの疼痛緩和・薬物療法のプログラム》(1986年Cancer Pain Relief)です。

これは、麻薬を鎮痛薬として適正に使っていこうというスタンダートな考え方を示したものです。 このプログラムでは、癌のような痛みの時には、麻薬を鎮痛薬としてうまく使うことが患者のためには非常に良いということを主張しています。

WHOのレポートを、日本の医療関係の方々に理解してもらうために、全国様々なところで講習会・勉強会を開催しましたが、そうしたことにも、厚生省の担当者として関わらせて頂きました。

かつて麻薬は、全面的に輸出入が禁止されていましたが、今では患者さんがお薬(麻薬)を携帯して、旅行(輸出入)ができるように法律も変えられました。 癌の患者さんが海外旅行に行かれたという記事を、新聞などで読まれたことがあるかと思いますが、それは日本の法律が変わったから可能になったのです。

社会のルールというのは、時代の流れで変わってきています。

麻薬というのは確かに怖いものですけども、人間の知恵を有効に使えば、価値のあるものになるものなのです。

わたしの祖父は、癌でなくなりました。 気丈な祖父が、”痛い!”と言いました。 痛みというのは、人間の理性を狂わせるひとつの要因だと思います。 “痛み”がコントロールできるのであれば、お薬を使ってうまくコントロールしてあげるべきだと思います。

モルヒネという麻薬は、有効なお薬ですが、かつての製剤は効く時間が短かかっため、1日何回もお薬を飲む、注射を打つということが多かったのです。

これを研究者や製薬会社の努力で技術開発し、今では夜お休みになる前にお薬を飲めば、痛みが長時間止まって、患者さんが熟睡できるようになりました。 このように今、使いやすいお薬がマーケットに出てくるようになりました。

患者さんを支援する製薬会社の努力とも合いまって、医薬品は日々進歩しています。

これから先は、医薬品を研究する側と患者さんの両方の努力で、使いやすい意義のある医薬品を生み出していく必要があるのだと思います。 そうしたきめ細やかな対応が、実際にガンの患者さんの”QOL”を高めていくことに繋がっていくのだと思います。


もとゆき物語~厚労省を退官して
私は厚生省を50歳の時に退官して、その後は財団法人 ヒューマンサイエンス振興財団に勤務を致しました。

「ヒューマンサイエンス」とは、「国民の健康と福祉に密接に関連する保健医療、医薬品、医療・福祉機器、生活衛生などに関連した研究」を包括する科学のことです。

ゲノム創薬や遺伝子治療の急速な進展が、ここ数年のうちに予想されており、バイオ、ゲノム等の研究の振興は益々重要になってきます。

そのような先端的、基盤的技術の開発、また、人類のためになる新薬や医療技術の進展に貢献したいと思い、同財団に再就職を致しました。

同財団退職後は、縁あって日本薬剤師会で仕事をすることとなりました。 今度は、医薬品として世に出たものを供給する立場の「薬剤師」の方々とともに仕事をすることとなったわけです。

創薬から供給へ、医薬品が世に出る流れで言えば川上から川下へ、一見正反対の仕事のようですが、私の意識では、どちらも薬学を選択した青年時代から同一ルールの延長上に位置しているものと考えています。

人類のためになる優れた医薬品を開発・供給し、専門家のもとで適正かつ安全に使用する、その確立のために今後も誠心誠意がんばっていきたいと考えております。