11月5日 秋の深まりを感じます(2)
父の葬儀は私が喪主を務めたこともあってか、私の親しい知り合いの方々にも大勢お越しいただきました。ありがとうございました。十分なご挨拶ができませんでしたので、本欄をお借りして、3日に行いました私の「遺族代表としての会葬御礼の挨拶」を、改めて記させていただきます。
「朝夕の肌寒さが秋の深まりを感じさせる11月3日、祭日の今日、ご多用の中、亡き父の葬儀にご会葬いただきありがとうございました。これまでに頂戴しました数々のご厚情とあわせ、心より感謝申し上げます。
さる28日早朝、父は自宅で倒れました。救急車で最寄の病院に搬送し、救急措置を施しましたが、4時13分帰らぬ人となりました。前立腺がんの肺転移による急性的病状悪化のよるもの、享年88歳でした。
父は大正10年5月11日、父藤井源松・母クニの長男として福山で生まれました。誠之館中学、旧制第六高等学校、東京帝国大学工学部で学び、社会へ。戦後、母玉江と結婚し、子供3人との5人家族を構えました。父は家庭においてはきわめて優しい父でした。私は父に怒られた記憶が残っていません。二人の弟も同様だったと思います。
私は岡山で高校受験をしました。当時岡山では県立高校の試験は総合選抜制、受験者の高校志望が認められていませんでした。私は母の学んだ岡山第1高女の流れを汲む高校に入学を許されました。もし別の高校に入学を許されていれば、そのキャンバスは父の学んだ第六高校。父が水泳部員として泳いだ同じプールで泳ぐこととなったかもしれません。しかし叶わぬことでした。
その3年後、私は父と同じ大学を受験しました。その結果発表の日、私は父と一緒でした。駒場キャンバスからの帰路、横浜のレストランで二人で食事をとりました。父は18歳の私にビールを次いでくれました。・・・私は、飲み干しました。
引退後は田園調布の自宅で母と二人、悠々自適の生活を送っていました。元気で、近くのスイミングプールでの水泳を日課としていました。米寿の祝いも家族そろって行いました。
今年に入り、寄る年波か体が弱くなりました。特に夜の頻尿が激しくなりました。私は父の楽しみにしていた夜の晩酌、ビール大瓶を缶ビールに変えてしまいました。今日の日が分かっていたなら・・・むごいことをしてしまいました。
父の棺の中にはビール券を忍ばせました。天国で心行くまで飲んで欲しい・・・。
父の逝った後には母が一人となります。
家族が支えてまいりますが、皆様から亡き父に頂いたと同様のご厚情を、今後とも母を初めとする遺族にも賜りますようお願い申し上げまして、遺族代表としての挨拶とさせていただきます。
本日はご会葬、本当にありがとうございました。
平成21年11月3日 喪主 藤井基之」